「今年から昇給なし」は許される?労使慣行として争う方法と証拠の集め方

労使慣行





定期昇給が突然止まった:労使慣行が法的権利になる3条件と対処法

「毎年4月に昇給があったのに、急に『今年はなし』と言われた。」そんな経験はありませんか?

長年続いてきた職場の慣例は、一定の条件を満たせば法的な権利になります。

結論から言います。定期昇給が長年の慣習として続いてきた場合、「労使慣行」として法的効力を持つ可能性があります。突然止められても、泣き寝入りする必要はありません。現役の社会保険労務士として、多くの労働相談を受けてきました。この記事では、労使慣行の法的根拠と実践的な対策をわかりやすく解説します。労使慣行が法的効力を持つための条件、定期昇給が突然止まったときの対処法、そして証拠の集め方と専門家への相談タイミングを順に説明します。

「暗黙のルール」が権利になるとき——労使慣行とは何か

労使慣行とは、就業規則や労働協約に書かれていなくても、職場で長年繰り返されてきた取り扱いのことです。毎年4月の定期昇給や、特定の節目に出る表彰手当、長年支給されてきた特別休暇——これらが長年続いていれば、労使慣行として認められる可能性があります(菅野和夫・山川隆一『労働法(第13版)』弘文堂, 2024年, 192頁参照)。

労使慣行は、それ自体では自動的に法的効力を持つわけではありません。ただし、一定の条件を満たすと、民法上の「事実たる慣習」として契約内容の一部になります(民法92条)。つまり、「ずっとそうだったから」という事実が、法的な根拠になり得るのです。

📌 ポイント:「事実たる慣習」とは、当事者が特に書面で合意しなくても、長期間の慣行が契約内容の一部になること。民法92条が根拠です。

慣行が「権利」として認められるための条件

裁判所は、労使慣行に法的効力を認めるかどうかを、主に3つの観点から判断しています。商大八戸ノ里ドライビングスクール事件(大阪高判平成5年6月25日・最一小判平成7年3月9日で維持)で示された基準です。

長期間・繰り返し続けられていること

同じ扱いが、一定の範囲で長期間・継続的に行われていることが必要です。「数回あっただけ」では不十分です。数年〜十数年以上の実績が求められます。

✅ やること:過去の昇給通知書・給与明細を今すぐ探してください。何年分あるかが、この条件の証明になります。

明示的に否定されていないこと

会社側も労働者側も、その慣行に従わないと明言していないことが必要です。逆に言えば、会社が過去に「この慣行はなくなる可能性がある」と発言していた場合は、この条件が弱くなります。

双方が「それが当然のルールだ」と認識していること

これが最も重要な条件です。法律用語で「規範意識」と言います。特に会社側が「この扱いをすることが義務だ」と認識していることが求められます。

⚠️ 注意:毎年労使交渉を経て昇給が決まっていた場合、会社は「交渉しないと義務はない」と主張できます。この条件が弱くなる典型パターンです。

「規範意識」が認められにくい状況

毎回団体交渉や協議を経てから昇給が行われていた場合、「今年はできないかもしれない」と会社が発言したことがある場合、組合が毎回改めて昇給を要求していた場合、就業規則に「予算の範囲内で行う」などの留保条件がある場合——こうした状況では「昇給は当然の権利」とは認めてもらいにくくなります。

【実践メモ】

条件③の証明には、会社側の「発言記録」が鍵になります。上司や人事担当者が「昇給は毎年やります」「これは当然のことです」などと言った場面を、日時・発言者・内容をメモに残しておきましょう。メールやチャットの履歴も重要な証拠になります。

定期昇給が止まった裁判——何が争われたか

実際に、定期昇給をめぐる労使慣行が裁判で争われた事例があります(和洋学園事件・東京地判令和5年10月30日・東京高判令和6年4月25日)。ある教育機関で35年以上にわたり定期昇給が実施されてきましたが、ある年を境に突然停止され、教員らが給与差額の支払いを求めました。

結果は労働者側の敗訴でした。就業規則に「予算の範囲内で行う」とあり毎年必ず昇給するとは読み取れなかったこと、そして毎年労使交渉を経て昇給の是非を決める仕組みで組合側も「当然行われるもの」とは認識していなかったことが決め手となりました。

📌 ポイント:この裁判が示すのは、「続いていた事実」だけでは不十分だということです。「会社側も義務として認識していたか」が勝敗を分けます。

労働者側が有利になりやすいケース

一方、労働者側に有利な状況もあります。明泉学園事件(東京地判令和元年12月12日)では、定期昇給に関する運用基準が存在し、労使交渉を介在させずに自動的に昇給が実施されてきた点が決め手となり、労使慣行の成立が認められました。就業規則に昇給時期や条件が具体的に記載されている場合、交渉なしで毎年自動的に実施されてきた実績がある場合、あるいは担当者が「これは当然のこと」と発言した記録がある場合などは、慣行の主張が強くなります。

【実践メモ】

労使慣行の主張を強化するには、「交渉なしで毎年実施されてきた」証拠が最も効果的です。過去の昇給通知書を年数分そろえ、交渉記録との照合で「自動的に行われていた」実態を示しましょう。

労使慣行が崩れそうなとき——今日からできること

裁判に至らなくても、労使慣行の知識を持っていることは、職場での交渉力を高めます。日常的に以下の点を意識してください。

会社からの通知・発言を記録する

昇給通知書・給与明細・人事担当者との会話記録を保存します。いつ・どんな経緯で決まったかを残しておきましょう。

✅ やること:昇給通知書が紙で保管されている場合はスキャンやスマホ撮影で電子化しておきましょう。紙は紛失リスクがあります。

「慣行を否定する発言」も記録する

「今年は難しいかもしれない」という会社側の発言も、後の交渉材料になります。都合の悪い情報も含めて記録することが、専門家への相談をスムーズにします。

組合や相談窓口を早めに活用する

「慣行が崩れそうだ」と感じたら、できるだけ早く動くことが大切です。組合がある職場は組合に、ない場合は地域の労働基準監督署や労働相談センターに相談してみてください。

⚠️ 注意:証拠は時間が経つほど集めにくくなります。「まだ大丈夫だろう」と思っているうちに、記録が廃棄されることもあります。早めの行動が重要です。

よくある疑問 Q&A

Q: 就業規則に「昇給は会社が決める」とあっても、労使慣行は主張できますか?
A: 難しくなりますが、不可能ではありません。就業規則の規定内容と実際の慣行の実態を両方そろえて、社労士や弁護士に相談してください。規定の解釈次第で結論が変わることもあります。
Q: 昇給だけでなく、特定の手当が急に廃止されたときも同じ理屈が使えますか?
A: 使えます。手当の廃止も「労働条件の不利益変更」として争うことができます。労使慣行の3つの条件と証拠の確保が同様に重要です。
Q: 組合に入っていない場合でも、労使慣行を主張できますか?
A: できます。組合員かどうかに関係なく、慣行の3要件を満たしていれば主張は可能です。ただし、組合が慣行の形成に深く関与していた場合は、状況が複雑になることもあります。
Q: 会社が就業規則を改定して慣行をなくそうとした場合、どうすればいいですか?
A: 就業規則の一方的な不利益変更は、労働契約法10条による制限があります。変更に「合理的な理由」がない場合、無効を主張できる可能性があります。変更の告知を受けたらすぐに専門家に相談してください。

チェックリスト:慣行を法的に主張できるか確認しよう

確認項目 チェック
同じ取り扱いが5年以上続いていた
その間、会社から明示的な否定はなかった
昇給が毎回交渉なしに行われてきた実績がある
過去の昇給通知書・給与明細を保存している
会社担当者が「当然やる」と発言した記録がある
就業規則の昇給に関する条文を確認している
社労士または弁護士に相談済み、または予定している

今すぐはじめる3つのアクション

まず過去の昇給履歴・通知書・給与明細を今すぐ整理してください。何年分あるかを確認することが出発点になります。

次に、会社の発言・通達・交渉経過を時系列でメモにまとめましょう。日時・場所・発言者・内容を記録しておくことが大切です。

そして、労働組合または地域の労働相談窓口に状況を相談してください。早めに動くほど選択肢が増えます。

まとめ

労使慣行が法的効力を持つためには、長期間の継続・明示的否定の不存在・労使双方の規範意識という3つの条件が必要です(民法92条・商大八戸ノ里ドライビングスクール事件〔大阪高判平成5年6月25日・最一小判平成7年3月9日〕参照)。特に「会社側の規範意識」の証明が勝敗を左右する最重要ポイントです。毎回交渉を経て決まっていた慣行は認められにくい傾向があり(和洋学園事件〔東京地判令和5年10月30日・東京高判令和6年4月25日〕)、一方で就業規則に具体的定めがあり交渉なしで自動的に実施されてきた場合は認められることもあります(明泉学園事件〔東京地判令和元年12月12日〕)。就業規則の一方的な不利益変更は労働契約法10条で別途争うことができます。

通知書・給与明細・発言記録などの証拠が最大の武器になります。「長年の慣例」は、記録さえあれば、あなたを守る盾になります。給与を守ることは、家族の生活を守ることです。「なんとなく続いてきた慣例」を、正確な記録と知識で確かな権利に変えましょう。

※本記事は執筆時点の法令・判例に基づいて作成しています。法律は改正されることがあります。最新の情報や個別のご事情については、社会保険労務士・弁護士などの専門家にご相談ください。

Photo by Brett Jordan on Unsplash



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